福島県福島市のお宿 旅館藤金のこれまでの歴史と歩みをご紹介します。

藤金旅館の歩み

昔の外観
奥州街道より藤金を望む(大正五年頃)
藤金旅館の屋号は、初代館主「遠藤金治」の二文字を取り藤金としたのが由来。
現在の藤金旅館の基礎を築いた初代館主遠藤金治は当初、上町(現在の福島市上町)の地にてたばこ雑貨販売の店を構え、 天秤棒を担いで振り商いをしていた。その天秤棒は今現在も家宝として大切に保存されている。 明治元年、福島町七丁目に旅籠屋を開業、万が一火事が起きても燃えにくいようにと お客様を第一との考えから建物は当時には珍しい蔵造りとした。 現在なら建物の防火対策は当然のことであるが、その当時にこのような堅実な考え方をしていたことは感心せざる得ない。
木戸孝允「天知有道守」
木戸孝允「天知有道守」
明治九年、明治天皇東北御巡業の際、陛下は現在の第一小学校に御宿泊され、随行員は一般の旅館に宿泊された。 藤金旅館には、木戸孝允氏(桂小五郎)とお供一行が離れ座敷の新一に宿泊され、 藤金旅館の客室に飾られてある「道を守るは天を知るに有り」の扁額はその当時木戸孝允氏から記念に頂いた書である。 また、尼宮(あまみや)様など高貴な方々がお泊りなられ、その際は、木製の宿札が掛けられた。
支店開業時の広告
支店開業時の広告
金治は全国一新講社奥州取締役(現在の県旅連理事長職のようなもの)として、 東京上野駅前の群玉舎に上京することがたびたびあり、その際、上野までは片道七〜八時間を要したが、その往復の車中にて同乗のお客様へお酒を差し上げて 「福島の藤金という旅籠屋でございます。福島へお出掛けの節はどうぞお泊りくださいませ。」 と挨拶してまわった。汽車賃が高い二等車のお客を選んで挨拶をしたというのも商売上手であったのだろう。
当時のお客様の一人に浅野財閥の祖・明治のセメント王と呼ばれた浅野総一郎氏もいた。 浅野氏は金治と同じく天秤棒を担いで東京の下町で冷たい水を商う(冷やっこい屋)など苦労した方であった。 藤金旅館の近くにある西形商店へ来る為に来福した際はいつも藤金旅館にお泊り頂いた。
金治の妻タカは、愛国婦人会長、観音講の講中活動など積極的に参加し、奥州の三おかみのひとりと呼ばれるほど 中々の女丈夫であった。
竹久夢二「黒子」
竹久夢二「黒子」
東北本線開通にあたり、明治二十六年福島駅前に藤金支店を開業する。 金治夫妻には子が無く、妻タカの弟である長兵衛に支店を任せ、 営業監督を長兵衛の子である長吉(のちの二代目館主)の長男雄四郎にした。 雄四郎は”轉歩”という俳号を持つ趣味人で、その関係で画家や書家など文化人も多く宿泊した。 長吉が亡くなった後、長吉の弟長治に支店を任せた。長治も造詣が深く、竹久夢二、巌谷小波、二宮哲三初代福島市長、 浅野総一郎、長沢仙蹊、小川芋銭、石川鴬村、酒井三良、井上遅羊、門間春雄各氏など各方面の政治家、財界人、文化人が宿泊した。 長治が亡くなった際、竹久夢二氏に歌舞伎の「黒子」の絵を書いてくださったり、浅野氏に書も頂いた。 長治は背が高く男前も良く風流な人であったが、酒も強く気難しい一面もあった。 前述の知人の他に渡辺峰松氏、検事正の飯沢高氏ら友人がいた。
大正八年六月、スペイン風邪で長治が急死、長男遠藤宗一(のちの三代目館主)が相続人となったが、 後見人として妻リンの信用のあった福島民友社文芸記者富士崎氏にお願いした。 富士崎氏は”放江”の号を持つ俳人であり、福島市内の信夫山にある富士崎氏の墓所には 辞世の句「朝の蚊の窓逃れ行く冷しさよ」の碑が故郷新潟の方に向けて立てられてある。
三代目遠藤宗一は、福島県旅連理事長を歴任するなど藤金旅館のみならず福島県全体の旅館業にも貢献した人物であった。
今は四代目遠藤民一が館主になり現在に至る。